安国山最福寺の由来      

・大同2年(807)に最澄(伝導大使)が天台宗を広めるためにこの地を訪れ、一堂を創建し、
 最澄の「最」をとり最福寺と名付けた。

・材料は浅草の浅草寺を解体したもの。
・本寺は八鶴湖畔にあり、天正年間(1573-1592)に寺号を(最福寺)と改め、元禄16年(1703)
 から宝永6年(1709)にかけて人夫1万人余を動員、現在地に移転した。 
 駿府政治云。

・慶長19年甲寅9月20日、上総国東金西福寺日善上人御目見。また(台徳院実紀)の中にも
 総州東金西福寺日善府城にのぼり拝謁す」と
あり、住職の日善が駿府のおもむき、家康公に
 謁見している。

・また、家康が東金に来た時もご機嫌伺いに御殿に参上し、寺領30石の寄進を受けている。
 両者の話は、大阪冬の陣の戦いの件とも言われている。

・最福寺には地名人の墓碑、句碑、歌碑も多い。
 中でも狂言(世話情浮名横櫛)の主人公である切られ与三郎の墓があり、鐘楼近くの墓碑には
(勇猛院徳翁日進信士)四代目吉村伊三郎、同化
4年と刻まれている。

 生まれは、大網白里市清名幸谷で、元石橋文部大臣のお墨付きの碑が建立されている。

・参考文献は、一部房総の道、東金御成街道、本保博文著より転載。
・尚、先代最福寺住職日凱上人は三笠宮殿下が東金来訪の折案内役を務めた。

   最福寺境内にある家康公と日善上人の墓碑


八鶴湖より最福寺を望む (2013-4)